寺子屋の教育

時代劇を見ていると寺子屋で子供たちが教師の口調に合わせて、論語の文章を読み上げる風景が出てきます。文字の読み書きを覚える学習の一部なのでしょうが、同じ文章を何度も何度も読んで繰り返す学習は、かなりの効果を上げていたと思います。

寺子屋への就学率はかなり高く、日本人の識字率(文字を読み書きできる人間の割合)を世界でも欧米に引けをとらない高いレベルに維持してきました。明治維新のとき、日本が欧米国家の植民地にならなかったのは、日本人の教育程度の高さがあったからかもしれません。

しかし、現代の日本人の教育レベルに目を向けると、そこにはある問題が見えてきます。例えば、2020年の世界の大学ランキングを見ると、東京大学は36位、京都大学は65位でランクは毎年下がる傾向にあります。論文の引用数などが評価基準に入っているため、英語に強い欧米や中国などの大学の方がランクが上になる傾向はあります。

時代劇の頃と比較すると、現代の子供たちが学ばなければならない情報量はとてつもなく増えています。英数国理社の5教科の教科書や参考書を小中高で使うものをすべて積み重ねるとかなりの量になります。これをできるだけ頭に詰め込もうとするのが現代の教育です。

最近の教育改革で、ただ覚えるだけではダメだ、覚えたことを応用し使いこなせる教育をしなければ、という議論が活発になり、センター試験が記述中心の共通テストに変身することになりました。グローバル化の視点から、英語教育も盛んになりつつあります。

さて、これで日本の大学のランクが上がっていくのでしょうか。私はそうはならないと思います。他国の大学に比べて、現在の日本の教育には大きく欠けているものがあるからです。

日本人というアイデンティティを維持し、発展させるための日本人の精神、魂、心と言うような目に見えない抽象的なものが欠けているのです。これらについて学ぶ場が非常に少なく、学ぶ人も限定されています。

現在発展している他の国々には形はさまざまですがこれがあります。キリスト教国ではキリスト教が、イスラム国家ではイスラム教が、中華人民共和国では共産主義が、有形無形の精神的支柱を形成しています。

日本にもかつてありました。寺子屋では、論語、四書五経など中国から輸入した古典を基礎に日本独自の道徳観が形成されました。日本は、世界から流れ込んでくるありとあらゆる思想、宗教、哲学を取り込み、日本独自の精神世界を作り上げてきたのだと思います。

しかし、この日本の精神的な柱は太平洋戦争への参戦と敗戦を通して完璧に近いほど崩壊し失われました。日本を占領した米国は積極的に日本の精神性を消し去る方向に意識的無意識的に行動した形跡があります。

つまり、現代の日本には、学問をするための精神的支柱がほぼないのと一緒なのです。日本が世界と対等に向き合い、世界を相手にしていくためには、失われた精神的支柱を再度作り上げなくてはなりません。今回のコロナ騒動はそのいいきっかけになるかもしれません。

 

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